4月8日杉並区西倫理法人会 MS 斎藤佳代子氏『ご縁に導かれ』

三人兄弟の末っ子に生まれ、父は小学校の教員だった、兼業農家でもあり、代用教員から正式な教員になった。
正義感が強く、いつも弱きものの味方をしていた。
この父から、『働くことが大切』と教え込まれたように思う。
土日の日課は家族総出で畑仕事、という子供時代だった。

私は一番上の兄とは10歳離れていた。
父は実母と死別したのち、兄弟の面倒を見ていた。
父は「母が子どもに生まれ変わってやってくる」と信じていて、娘がどうしても欲しかったという。
私の就職にあたっては「働くことは今までに十分教えてきたのでなにも心配していない」と言われた。
私も、働くことは尊いことと思っていた。
父を支えた母は、どこまでも穏やかで優しい人だった、ガキ大将で走り回るような子どもだった。

教員ににはれず、ヤマト運輸に就職し、人事部人事課に配属された。
秘書課へ移動し、小倉昌男社長づきとなった。
組織に入ると色んな人の意向を忖度し無くてはならないが、社長づきだったので一人の意向だけを伺っていればいいのは楽だった。

清廉潔白を旨としまっすぐなお人柄で、外向きの顔とは違って実はシャイで優しい人だった。
宅急便が急成長期の頃だったが、ある時「一見なにもなく穏やかに見えるときが怖いんだよ」とおっしゃっていたことをよく覚えている。
そういうときは、表面は静かだけれど、奥深くで何かがおきる前触れなのだと。

自分の判断一つで社員とその家族が路頭に迷うかもしれないと思うと眠れないこともある、とも言われていた。
後々思い出しては勇気づけられる話だった。
色紙に「神は、耐えられない苦しみは与えられない」と書かれ、ターニングポイントのたびに指針となり励ましとなった。

仕事を続けたいとも思ったが、主人と出会い、この人についていきたいと思い結婚した。
結婚には最初は家族は反対だった。

平成元年1月義父が急逝し、夫婦で実家に戻ることになった。

昔は西群・東群といい桐生足利の繊維製品を運んでいた。
繊維産業が衰退し、東群運送も衰退しつつある頃で、10年以上赤字の会社だった。
東群運送自体寄り合い所帯で、前橋と桐生が一緒になって東群運送となっていた。

前橋は佐川系で黒字、桐生が赤字で、あわせるといつも黒字の優良企業という状態だった。
全く別々の組織体が一緒になっているような会社で、そこに帰って15年、落ちていくものを回復させていくのは時間がかかることを実感した。
改革は、創業者の娘である齋藤の母はじめ、社員の意識改革に手こずり、スムーズには進まなかった。

平成15年、トラックを一度に入れ替える時期で、業態も変更し、黒字化のめどが付いたときに主人が倒れてそのままなくなった。
享年47歳だった。私は42歳だった。
ちょうど実家を建て替えていたときで、主人がなくなった直後に実家から電話があり、「お前の帰ってくる家はなくなってしまったよ」といわれてはじめて冷静になれた。
戻るところはない、ここで踏ん張るしか無いのだ、と。

会社代表を決めなくてはならなかった。
もう一人の株主に「おまかせする」と言われ、困った義母から「佳代子さんがやってください」と言われて、私が代表に就任した。
実家からは反対されたが、他の方法もなく、引き受ける決心をした。

15年の主人の苦労を見ていて、言いたいことややりたいことを押さえて頑張ってきて、やっと黒字化できるときだった。
主人の苦労を実らせたい、という一心だった。
子どもたちに「お父さんの人生をお母さんが生きる」と宣言した。
娘が19歳、息子が6歳。
私の父が母と死に別れたのも6歳で、因縁を感じた。

東群運送を引き受けたものの、人事や経理はわかるが、営業や車輌のことなどなにも知らなかった。
ヤマト運輸の小倉社長をお訪ねした。
決算書を診てもらい、前橋との分割問題があることを相談したら、会社立て直しに3人、ヤマトから出向させようと言ってくださった。
帰って義母に報告したら、そんな人はいらないとけんもホロホロだった。
そのときには、せっかくのお申し出を断るなんて、なんて人だろうと思ったが、今となってはその選択は正しかったと思う。

自力で出発したが、社員との葛藤を始め様々な問題にぶつかった。
不幸はまとめてやってくる。
過積載を3回、交通事故、信頼していた社員の横領、抜擢した人が私生活で問題を抱えているなど、次々と問題がおきた。
なぜ私のところばかりこんなに問題が来るんだろう。
後ろを振り向いても誰もいなかった。
前橋・桐生の分割問題も抱えていた。

辛くて、ふと車に乗っているときに「このままちょっとハンドルを切れば楽になる」と思った。
でも子どもたちに「お父さんがかわいそうだ」と言われ、負うた子に教えられ、とはこういうことかと思った。
娘の成人式は、無くなる前に主人が決めてくれた振り袖で出席できた。
私は花壇の隅にクロッカスを植えていたのだが、それが芽吹いたのを見たときに、播いた種は芽を出し咲くのだと思った。

義母は、私にいろんなことを教えてくれた、気丈でかっこいい人だった。
絶対にかなわない、と思い、反抗すまいと思っていた。
昨年3月になくなったが、無くなる前に見舞いに行ったら、自分が大変なときに私のことを心配してくれていた。
なんと非情なと思ったことも度々だったが、この人の嫁でよかったと、思った。
「伝えていくこと」――自分のことだけではなく、次の時代に伝えていくためには言うべきことを言う強さが必要なのだと思う。

小倉社長から大塚由紀子社長を紹介され、そこから盛和塾に入り、アバンティの渡邊社長に出会い、炭屋社長に出会い、倫理法人会に入会した。
まさに、ご縁に導かれてきた。

経営理念は、架け橋というキーワードで、内から外へ活動を広げてきている。
桐生市の紡績市への参加で荷受けコーナーをにない、社会福祉法人ありさんちの販売代行をしている、自閉症の倫太郎さんの絵に出会い、サブロゴに使わせてもらっている。
アバンティさんとの共同事業も始めた。
アースデーを機に福島支援を始め、オーガニックコットン栽培にも携わり養護施設の人に協力してもらい、綿繰り実習もしている。
社会貢献活動を通じてご縁が次々と広がっていて、これからは桐生で花開いていく。

 

文責:幹事 福田恵美