北洋舎は創立69年、私も同じ年に生まれましたので、今年69歳になりました。

「今週の倫理」は「ものの見方を根本から見直す」です。
講話タイトルの『原発事故で分かった普通の暮らしの価値』ということは、まさにこのことです。

震災から丸六年がたちました。
2011年3月11日~28日までの18日間の映像がありますので、それをご覧ください。

<津波、火事、仙台空港の飛行機、自衛隊の捜索、船や車や家が乗り上げている情景、がれきの山、校庭のSOS、避難所、悼む情景・などの映像が日を追って映し出される>

<最後のナレーション>

人を救えるのは人でしかない
人の心を救えるのは人の心でしかない
私に出来ること
あなたに出来ることが
きっとあります。

それが
復興への歩みを支える力となり、
必ず、東北、日本が一緒に笑える日が
来ると信じています。
みんなの一歩が
これからの日本を作ります

Photograph:The New York Times

原発事故によって、私達福島は囲いこまれました。

水蒸気爆発で、近い区域は直ちに非難といわれ、私達の地域は屋内退避で窓を開けるな、目張りをせよ、エアコンをつけるなといわれました。
庭のもの、もいで食べていた柿も触れない、食べられなくなりました。

『震災日記』というこの映像は、私の妹の詩を映像化したものです。

心の中をのぞいてみる
疑いもなく確かなものと思っていた
まわりの世界が、
一瞬にしてすべて消え去った。

私をかたちづくっていたものは
何だったのか
私が私であると思えていたものは
何だったのか
何の理由もなくこの世から消え去った
たくさんの人達。

その一人一人は何を思いながら、
最期のときを迎えたのだろう。
思うだけで息が止まりそうに苦しい。
生きることと死ぬことの境い目の
なんという理不尽さ。

ほんのちょっと早ければ、
ほんのちょっと遅ければ、
ほんのちょっと高ければ、
ほんのちょっと低ければ
生きて、いまここにいることの、
なんという危うさ不確かさ。

私が私であると思えていたものは
何だったのか
心の中をのぞいてみる
死んでも故郷へ戻りたいという、
この強い思い
これは一体何なんだろう

はじめて気づく
故郷の風景を見る時、
人は今をみているのではない
私の目が見ているのは、
いくつもの幼い頃からの
風景のかさなり。

そのまた先の伝えられてきた、
記憶のつらなり。
故郷は、
今まで生きてきた時の証し。

受け入れがたい
変貌を遂げた今の姿を
故郷の風景として、
この先どう重ねていこう
心の中をのぞいてみる
放射能というものを、
どの位持っているのか
はかってくれるという。

二分間、じっと測定器の中に立てば、
あなたの持っている放射能ですと
数値を郵送してくれる。

はじめて知る、
私の持っている放射能。
今すぐの危険はないという。

しかし、その先に想像力は働かず
途方に暮れる。

庭や家中の線量を定期的にはかる。

針の振り切れる場所には近づかない。

野菜も、果物もはかる、
数値の高いものは食べない。

そして、
どんなに想像力を働かしても、
同じ身の上になってみなければ
とてもこの気持ちはわかるまいと
思い知る。

自分もかつて広島や長崎、
沖縄やチェルノブイリの苦しみが、
果たして
分かっていたのかと自問する。

心の中をのぞいてみる。

東電は、
失ったものを請求してくれという
失ったものは、すべて
お金に換算しなければならぬという
計算できぬもの、
決して計算したくないもの、
生き残った人間への何という残酷。

生きる為、
人はかけがえの無いものに、
一つ一つ値段をつける
そして、
代価は数字となって
通帳に振り込まれ
すべてが終わったことになる。

しかし、本当は心の中で、
ずっとずっと失ったものの
価値を問い続けている。

失ったものは何なのか?
なぜ失ったのか
取り戻したいものは何なのか?
どうやって取り戻せばいいのか?

心の中をのぞいてみる
夢のように時が過ぎてゆく
心の浮き沈みの
なんとはげしいことよ。

皆、震災のせいで
すべてが
バラバラになったという。

でも、よく考えろ!

夫婦の不仲も、
親子の葛藤も、
仕事の挫折も、
うまくいかないことの全てが、
そのせいだけではないだろう。

人の心の危うさは
今に始まったことではあるまい。
成りも振りもかまわず、
むき出しになってしまった、
お互いの心。

それをもう一度、
どうやってつなごうかと、
今必死に考える。

深く、深く考える。

やるべきことは何なのか?
語るべきことは何なのか?
ゆるすべきことは何なのか?
決してゆるしてはいけないことは、
何なのか?

朝に夕に揺らぐ
危うい心で、考えるしかない。

心の中をのぞいてみる
線量が下がり、
そこそこに人が戻り、
一見あたりまえの日常が
くりかえされるようになり
人はそれぞれ新しい生活を
つみかさね、
その中で喜び、悲しむ。

震災の出来事は、
消しがたいエピソード、
忘れがたい物語となって、
それぞれの心の中に
沈んでいるが、
時はどんどんその上に
降り積もる。

山は語らない。

海は語らない。

息も絶え絶えになりながら、
気の遠くなるような浄化の時を

黙って受け入れている。

人間がしてしまったことは、
まだ何も終わっていない。

この世に生きる束の間の一瞬
海のように、
山のように、
私も出来る限りのことをして、
浄化の時に身をゆだねよう。

SHINSAINIKKI MINAMISOMA

Auther:Ikuyo Kanno

原発事故により、南相馬市は、原発から20km圏の警戒区域(主に小高区)と、30㎞圏の緊急時避難準備区域(主に原町区。弊社のある場所)、30km圏外(主に鹿島区)は普通の生活が出来る区域(ここに仮設の小中学校が設置された)に、線引きされ、区域による対応の違いがあり、地域が分断されてしまいました。

弊社では避難により従業員が30名から20名に減ってしまいました。

この震災で、私たちの暮らしは法律で成り立っていることを思い知らされました。

浪江では、3月12日に、原発が爆発するから逃げてくださいと言われました。

前日3月11日(震災当日)、消防が必死の救助にあたりましたが、車の中に閉じ込められている人たちなどは重機が来ないと助けられないので、「明日来るから」と、その日は救助を終えました。
ところが翌12日になると原発対応に消防が全員行かなくてはならなくなり、その人たちは生きたまま取り残されたのです。
40日後の再捜索で、60名ほどが餓死で発見されました。
消防の人たちは、自分が残してきてしまった人を忘れることがでず、置いていかなくてはならなかった、助けられなかったことを、ずっと心に抱えて生きています。

南相馬市でも700人近い人が亡くなりました。
みんな、誰かしら親しい人を失っています。
その喪失を抱えていない人はいません。
震災は生きのびても、避難所で亡くなった人など震災関連死もあります。
一人一人が無念と残念を抱えています。

私の父は震災直前の3月1日に亡くなり、母は骨壺を抱えて逃げました。
その母も11月にがんで亡くなりました。
両親の人生、個人としてどう生きてきたかを、亡くなった後に初めて知りました。
芯を貫いた人だった、その生き方を私は受け継いでいかねばならないと思いました。

バラバラになった従業員が、戻ってきてくれて会社を再開できました。
南相馬は放射能の心配、問題もありましたが、再び集まってくれた従業員が皆がんばってくれました。
震災から3年たって、従業員の感謝を伝えたいとDVDを作り、一人一人に感謝の言葉を贈りました。
このDVDを作る際、20人一人一人を思い浮かべて感謝を言葉にすることは、実はとても大変でした。
いかに、ちゃんと一人一人を見ていなかった、向き合っていなかったかを思い知ることになりました。

従業員に支えられて、会社も地域も成り立っていることを改めて実感し、どんなふうにお返しできるのだろうか、と考えていました。

震災前は、経営環境も厳しいし、と、働く人の環境改善はついつい後回しになっていました。
しかし、震災後しばらくは南相馬は放射能問題で囲いこまれてしまい、逆に外から攻められるということがなくなり、その時初めて内部を充実させることに目が向きました。
3年目に内部環境の充実に取り込み、クリーニング業は暑い作業場なのでそれを改善したり、福利厚生を充実させたり、働く環境を向上させる取り組みをしました。

そうするためにも、会社には体力が必要です。

数字を管理し、利益をだし、その利益の配分に、社長の人間性がそのまま表れるものだと思いました。
利益が出れば、従業員にも地域にも分けることが出来る。
そのことを、つくづくと思い知らされました。

震災の前に倫理法人会に入会していましたが、震災後、MSに行くたびに、17か条の一つ一つがことごとく自分に当てはまると感じました。

震災では私達は(物理的にも)囲いこまれ、本当に逃げ道は一つもありませんでした。

地元の人だけが知っている裏道でも通ればいいと思ったら、それも全部封鎖され、20km圏内は蟻一匹は入れないくらいの態勢が敷かれました。
その時動員されたのは他府県の警察で、地元の警察では知人友人もあるのでついゆるくなると、縁もゆかりもない他府県の警察がやってきました。

国の指示や法律に囲まれながら毎日を過ごしてきましたが、その中で私たちのよりどころは日本国憲法でした。
憲法には生存の自由や基本的人権がうたわれていますが、私達はそれをことごとく奪われたのだと感じます。
それは戦争と同じ状態なのですが、戦時中の生活を経験した母の友人が「戦争よりひどい。戦時中は、空襲がなければ普通の生活ができたけど、放射能は24時間窓を閉めて、外にも出られない」と嘆いていました。

福島原発は東京に電気を送っていました。福島とは無関係の人たちのためになんでこんな理不尽な目に合わなくてはならないのか、という怒りも、その時起こりました。
でも、東電のお陰で福島は潤っていたのも事実、何も言えないのですが、震災によって、そういう、普段考えなかったことが見えてきました。
「暮らしが何によって成り立っているのか」を検証し、根本から見直す機会となったのです。

政治や経済は難しい、個人の力ではどうにもならないと思いがちですが、でも実は「国家を作っているのは一人一人」=「自分自身の考え、選択が国を作っている」ということなのです。

南相馬は、何もなくなり、新聞も郵便も届かず、ATMも止まりました。現金を持っていなかった人は何も買えませんでした。
大手銀行の支店は軒並み閉鎖され、動いたのは地元の信用金庫だけでした。

東京は実はもっと過酷で、田畑も何もないので、何か起こった時には大変なのではないでしょうか。
その状況を今一度、みなさんが冷静に考えてみてほしいと思います。

震災を契機に杉並から南相馬に通い続け、双方の子供たちをミュージカルという形でつないでいる田中菜穂さんという女性がいます。
彼女は、結局、南相馬に移住して、この活動を事業主として立ち上げました。
「南相馬&杉並トモダチプロジェクト」という活動で、南相馬では4/2に、杉並では5/3、5/4に杉並セシオンホールで公演を行います。
ぜひお越しください。

http://37nouta.wixsite.com/tomopuro

震災を通して

「人はどんな境遇でも生きようとする力を持っている」

ということを実感しました。
そして、私達の社会は網の目のような関係性で成り立っていますが、

「根本を見なおしていく見方と姿勢」

が、必要だと思います。

未来は今の中にある、それを作るのは私達大人、一瞬一瞬の判断や行動が未来を作って行きます。
未来は他人事ではなく、私たち一人一人の生き方が子供たちに伝播していくということを、よくよく自覚しないといけないと思います。

一人一人の尊厳と可能性を信じて、これからも復興に尽くしていきます。

文責:幹事 福田恵美