img_3269渡邉さんが『22世紀に残すもの』というラジオ・WEB番組を作っており、そのお手伝いをしています。
番組を通して22世紀を考え、今をどう生きるかを伝えたいと思っています。
『22世紀に残すもの』では、ちょうど今、文化人類学者の辻信一さんの動画を配信中です。
辻さんがナマケモノを助けようとした話はとても心に響きました。
自分がナマケモノにならないと、自分自身が消滅してしまう。
その感覚で自然や社会を捉えることが大事だと思いました。

私は南海放送のディレクターで、現在56歳です。

実は以前、公立幼稚園で16年間努めていました。
17年目に教育委員会への転属辞令があったのですが「現場を離れることはできない」と、そのまま退職しました。今でも幼稚園の先生は天職だと思っています。
ディレクターの仕事は、やっと16年になりました。
ですから自虐的な言い方ですが、まだまだ素人ディレクターだと思っています。

テレビや新聞は今、不信感をもたれています。
それを感じるのは、映画上映後の講演の質疑応答です。
決まって出てくるのは「テレビは本当のことを伝えないのか?!」という意見です。多くの人々が、そう思っているのだということを実感します。

テレビは一方通行です、ですから「直接観ている人に語りかけたい」と映画を作ることにしました。
映画であれば、その会場で観る人の感情も感じ取れますし、語りかけるチャンスもあります。

みなさんもご記憶のある第五福竜丸事件が起こったのは1954年3月です。
中部太平洋のマグロ漁場で行われた水爆ブラボーの爆破実験によって被曝した第五福竜丸が読売新聞によってスクープされ、世界的な話題になりました。

これから私がお話する内容は全て公文書、原子力委員会の文書など、公のデータをもとにしています。

結論から申し上げます。『この会場にいる皆さんはすべて被曝者です』。
まず自分自身が被曝者であることを自覚して頂きたいのです。

中部太平洋上での核実験は1946年から1962年までで100回以上に及びます。
核実験場となったのは、ビキニ環礁、クリスマス島、ジョンストン島など、すべてマグロ漁場の真ん中です。
皆さん聞いたことのある第五福竜丸は、たまたまクローズアップされただけで、第5福竜丸以外にも多くの船が操業していたのです。
1954年10か月間に放射能検査を受けた船は、延べ2729隻、そのうちの延べ992隻の船が被曝していました。

1952年アメリカは世界初の水爆実験を行います。
例えば、水爆ブラボーはヒロシマ型原爆1000倍の破壊力をもっています。
そんな水爆実験が行われている海域でマグロ漁船は操業を繰り返していたのです。

爆心地でとれたマグロですから、高濃度に放射能汚染していましたが、当然、乗組員も被ばくしていました。
1954年3月から行われた放射能検査の際の廃棄基準値は、毎分100カウントでした。

日本政府は1954年12月、わずか10か月で放射能検査を打ち切りました。
1955年1月1日から後のマグロは、一切、放射能検査を受けることなく、すべての魚が日本の食卓に運ばれたのです。

1956年以降も62年まで核実験は続きました。
しかしマグロ漁は、普段通り、年6回から7回爆心地(マグロ漁場)に通い、操業は続けられたのです。

『荒海に生きる』(1958)というマグロ漁の様子を描いた映画があります。
これは、高知県室戸船籍のマグロ漁船第7幸鵬丸の1航海に密着したものです。
通常、マグロ漁は、1年に6回から7回行われます。6回から7回、中部太平洋にあるマグロ漁場に通うわけです。
それは、言い換えれば、6回から7回、爆心地に通うということでもあります。

この映像では、漁場に向かう途中、第7幸鵬丸が、核実験が繰り返されるビキニ環礁の至近距離を通過する様子が映し出されています。
木の葉まで見えるほどです。
そして、漁場に到着し操業が始まります。
しかし、その場所は、イギリスが核実験を繰り返す爆心地だったのです。
第7幸鵬丸は、1回の漁で3回の爆心地と接触していたことになります。
その漁を年間6回から7回、そして、何年もの間繰り返していたのです。

私が取材しインタビューした関係者はおよそ150人。20代で亡くなった人もいます。
「世界で初めて水爆で亡くなったのは第五福竜丸の久保山愛吉さん」ということになっていますが、実は、それは間違っているのです。

映画X年後2の主人公でもある川口美砂さんは、映画X年後を見て、36歳で亡くなったお父さんの死因が、酒の飲み過ぎではないことを知ります、被災者や遺族の聞き取りを始めたのはそのことがきっかけなのです。

1962年、アメリカによる大気圏内核実験は終了します。
しかし、セシウム137や、ストロンチウム90などの半減期は29年です。
1962年に生成されたそれらの放射性物質が半減するのは1991年なのです。
遠い過去の話ではないのです。

img_6002アメリカ原子力委員会は1952年、すでに全世界にモニタリングスポットを設置していました。
アメリカ原子力委員会は、全世界に放射性物質が広がり、放射能汚染することを承知の上で核実験を繰り返していたのです。

1952年日本列島は放射能に覆われていたことは、アメリカ原子力委員会の機密文書で明らかになっています。

一昨年、日本の気象台のデータを入手、鹿児島24万カウント、福岡34万カウント、京都8.7万カウント、東京では3.2万カウント、沖縄17万カウントなどの記録が残されています。
降り注ぎ、刻まれた放射性物資は、すぐには消えないのです。

これだけの世界的な被ばく事件なのですが、ほとんど未解明です。
私たちは真実を知ることがなにより大切です。知ったうえで何をしなければならないのか、また、何をしてはいけないのかを知らなければならないのです。

<感想>

「知る」ことはとても大事なことだと思いました。知ってしまったらあとには戻れない。一つのきっかけを頂いたのですから、それを自分で更に調べ、深め、自分の中にも「そうだな」という確信が生まれたら、伝えていかなくてはならない、と思います。

「22世紀に残すもの」、本当に私達は何を残せるのだろうかを考えていかねばと思いました。

(杉並区西倫理法人会幹事 福田恵美)