本日のモーニングセミナーは女性会員お二人の講話です。
お一人目の巽真紀さんは最近ご結婚されて梶木真紀さんになりました。
梶木さんはお仕事とは別に手話による活動をされていますが、始めたきっかけや取り組みの思いをお話してもらいました。

手話からはじまる出会い

表情が重要な手話

大阪生まれの梶木さんですが、お父さんが銀行に勤められていたことから転勤が多く、大阪から横浜、その後品川へ移り、そして杉並に移りました。
その都度学校も転校を繰り返したわけですが、ある時お母さんが学校から呼び出されました。
何事かと思って学校へ行くと、先生からあることについて心配をされていました。それは「友達とも遊ばず勉強ばかりしている」というもの。
梶木さんが言うにはその頃は超がつくほど真面目で勉強ばかりしていたそうです。土日も関係なく一日10時間も勉強していました。

そんな梶木さんでしたが、手話との出会いはその小学生の頃に見た「星の金貨」というドラマでした。小学生の頃には手話を学ぶ機会が無かったので親に手話の本を買ってもらって独学で学び始めます。でも本での平面的な学びには指の形などを知るには限界がありました。梶木さんは手話に対する思いを持ち続け、大学入学した時にすぐさま手話サークルを見つけて入部しました。そこで本格的に手話を学びだした梶木さんでしたが、すぐに本と実際の「立体的」な手話の違いを知りました。

指で様々な単語を表現する手話ですが、実は顔の表情もとても重要で、手と顔で表現するものだということを知りました。例えばいくら手で「楽しい」と正確に出していても表情が笑っていなかったら通じないということで、梶木さんも手話を通して表現力を鍛えられたということでした。
また、日本人特有の曖昧な言葉「〜かもしれない」「〜だと思う」といったものは手話にはないため、曖昧な表現をしようとしても全く伝わらないといった、手話の世界との文化の違いも学びました。さらに、手話は各国で異なるだけでなく、少し聞こえる人の手話とまったく聞こえない人の手話も異なります。
生まれた時から聞こえない人にとっては日本語の概念がなく、手話そのものが言語であるためで、それぞれの言語を「手話で訳す」というものとは違ってくる。梶木さんが言うには、通訳のための手話(日本語手話)を学ぶ人は趣味程度でしかないので、できれば言語としての手話(日本手話)をキチンと学ぶべきだと言います。

人生を変えてくれた手話への恩返し

梶木さんは手話を学ぶことで性格が180度変わりました。
小学生の頃から真面目で勉強ばかりして人と付き合うことをしてこなかった生き方だったのが、手話を学ぶことで表現することの楽しさを知ってからは人と話すことが好きになり気持ちをストレートに伝えることもできるようになりました。さらに、以前は家にいることが多かったのですが、手話を学んでからは家でじってしていられないほど活動的になり、様々なイベントや活動に参加するようになったそうです。

現在は仕事以外の様々なところで手話や関連したサポート活動やをされていますが、そのうちの一つにろう者のビーチバレー選手へのサポートというのもしていました。あまり知られていませんがろう者のオリンピック「デフリンピック(Deaflympics)」というのがあり、実はパラリンピックよりも以前から開催されていた国際競技大会で、それに出場する選手のサポートです。
プロのコーチと選手が練習をする中で、その指導や指示をする際に通訳に入るというものですが、専門的な言葉などもあって通訳も大変難しい上に、それ以外の時はほぼマネージャーのように球拾いなどの身の回りの世話などもしなければいけないというかなり大変なものだったそうです。

これらの活動はすべてボランティアなので報酬が無いどころか交通費などは個人負担で、仕事とは別に週末休みの時にやるものなので体力的にもハードな取り組みです。でも梶木さんはお金ではなく、色んな人に出会い、色んな体験をさせてもらえていることに只々感謝だと言います。手話に巡り合わなければこんな人生は送れなかったのだから、手話に感謝をしているということでした。

梶木さんはそんな手話に対する恩返しとして今後はボランティアではなく仕事として取り組めるものにしていこうと考えています。梶木さんは、手話はどうしても福祉やボランティアというのが当たり前になっており、それだけに趣味や副業程度にしか捉えられず広がりにくいと言います。手話をもっと広く普及させるためには手話通訳が仕事として、職業として成立するようにしていかなければいけないと考え、今は仕事として引き受けるようにしています。自分がそうすることで周りの人に手話が立派な技術であり仕事であると理解してもらえるようになると考え活動をしていくということでした。

倫理で命が救われました

立派な生き方をした両親

森本典子さんは昭和50年(1975年)8月に初めて倫理に出会いました。
その頃ある知り合いの方から毎月「新世」を渡されていました。でもそれまでほとんど目を通していませんでしたが、ある時じっくりと読んでみたところ子供の育て方や感動した体験報告があり、「おはよう倫理塾」に行ってみることにしました。
その日の輪読が1条の「日々好日」でした。「今日しなければ、何時その日が廻って来よう」「一日は今の一秒の集積(あつまり)である」「気づいた時、気がるに、喜んでさっと処理する」など、書かれているすべてを気に入り、家に帰ってそれを冷蔵庫に貼り出すほど気に入ってしまいました。初めて行ったその日に1条に巡り会えたから今まで続いたと森本さんは言います。

2条で「苦難は幸福に入る狭い門である」ということを学ばれた森本さんは、入会して4ヶ月後に本当に大変な苦難に遭われます。12月1日に森本さんのお母さんが亡くなりました。

森本さんのご両親は福岡で出会われました。森本さんのお父さんは飛行機の技術者で、戦時中の当時、「トンボ」という海軍の練習機を作られたそうです。その後辞令により名古屋の三菱重工業勤務となり、そこでゼロ戦(零式艦上戦闘機)の開発にも携わったそうです。森本さんはその名古屋勤務の頃に生まれました。その後再度辞令により中島飛行機製作所へ転勤となりました。このように森本さんのお父さんは一級の技術者であったので、国が女中さんのいる家を用意し自家用車もあったそうです。

東京は3月10日と5月25日の二度大空襲に見舞われるのですが(正確には5回)、新宿方面を襲った5月25日の大空襲の時、逃げ遅れた森本さんをお兄さんが助けに来てくれたのですが、防空壕への道すがら焼夷弾の直撃に遭い即死されます。そのことを知って駆けつけたお母さんは、ショックで動けなくなって森本さんを置いて、泣くこともなく血まみれになっているお兄さんの体を綺麗に拭って始末をされたそうです。

不幸は続き、その後半年も経たない内に今度はお父さんが肺炎で亡くなられます。国から与えられていた家にいることができなくなり、お母さんは方南町に家を買って残った兄弟6人を連れて移ります。保険金が入りましたが、当時の混乱期においてそれは紙切れ同然となってしまいます。でも、森本さんのお母さんは食糧事情の悪い中、大変な苦労、やりくりをして6人の子供を育てました。

そのお母さんは72歳で亡くなられますが、森本さんが言うには13条「反始慎終」に書かれているような「立派な死に方」をされたそうです。
当時森本さんの弟さんが方南町で学習塾をされていて、一緒に暮らしていたお母さんは3時になると子供たちのおやつを持ってくるというのが日課でした。ある日3時になってもお母さんが来ないので様子を見に行くと、布団の上で直前まで読んでいたであろう本がかぶさった状態で亡くなっていました。さらに、その布団の下には生命保険と遺影があり、髪も染めて綺麗に結い上げていました。
「見事な死にようをした人は、見事な一生を貫いた人である」森本さんは13条を読む度にお母さんのことを思い出すそうです。
それが倫理に通いだして4ヶ月後の12月1日のことでした。

命を救われた倫理の指導

その5日後のこと、当時呉服屋さんと質屋さんをされていた森本さんは、呉服のお得意さんから急に借金をお願いされます。切羽詰まった様子のお得意さんを見てすぐに質屋の運転資金がある通帳を持って銀行へ行き、その場でその運転資金を渡しました。ご主人もよく知るお得意さんで、急がれていたことから何の相談もせずに多額のお金を貸してあげたのです。

すぐに返すと言っていたお得意さんでしたが10日経っても返してくれません。そんな時、今度は森本さんの当時中学3年生の娘さんが自宅で故障していた石油ストーブに火をつけようとしたところ、漏れていた灯油に引火し火事を起こしてしまいました。幸い娘さんも一緒にいたご主人のお母さんも無事で、類焼も免れました。

ご主人は火事をきっかけに質屋を畳むことを決意し、そのお金で家を建て直すことにし、森本さんに預けていた通帳を渡すように言いました。そこで初めて質屋の運転資金を貸してしまっていることを知ったご主人は激怒し、すぐに貸したお得意さんのところへ行って返済を迫りました。
明日必ず返すというその言葉を信じて帰りましたが、翌朝ポストに事情が書かれた一通の手紙があり、その家族は夜逃げされてしまいました。

それからが大変でした。
怒ったご主人からは月に3万円でやりくりするよう言われ、ご主人のお母さんや親戚からも責め立てられます。責め立てられる日々を送る内に森本さんも疲れ切ってしまい、自殺することを考え準備をし、毎日死ぬことを考えていました。
そんなある日、「おはよう倫理塾」で三輪三郎先生の講話を聴いた後、指導を受けました。そこでそれまでのことを話し、死のうとしていることも伝えたところ、先生から怒られました。あなたがお姑さんやご主人から酷いことを言われようとも、それは当たり前のことだからしっかり受け止めて2つのことを実践するよう言われました。一つはご主人にお詫びの手紙を書くこと、もう一つは常に明るく振る舞うことでした。

それからどんな時でも明るく振る舞いご主人やお姑さんに誠心誠意尽くしてきた森本さんですが、ある時家族でテレビを見て笑っていた時に、ご主人から「よく笑っていられるな」とまた怒られました。どうしようもなく悲しくなった森本さんは泣きながら自分の失敗を悔やみ死のうとまで考えたこと、指導を受けてそこから今までご主人やお姑さんに「明朗愛和」で尽くしてきたことを伝えました。
それを聴いたご主人も泣きながら森本さんに辛くあたってきたことを詫びられたそうです。森本さんは「お金が無くなって3万円でやりくりできたのは娘の協力もあったし、主人も粗食に耐えて頑張ってくれたからこそ」とご家族に感謝をしています。
森本さんが苦難を乗り越えられたのは、立派な生き方をされたご両親の存在と倫理でした。あの日三輪三郎先生に指導を受けていなかった死んでいたかもしれない。だから倫理に命を救われたと森本さんは言い、今も毎朝の「おはよう倫理塾」に通われています。

文責:寺内不二郎