元になった子供の頃の辛い体験

尾﨑喜代博講師は昭和32年に福井県足羽郡美山町に生まれました。美山町というのは山と田んぼしかない、尾﨑講師曰く「ムーミン谷」のようなところで育ちました。だから、この地域にいる人たちが地球上のすべての人だと考えていたほどです。

ところが、そんな平和な暮らしの中で尾﨑少年は突然苦難に見舞われます。それは、小学校3年生の時に母親が突然いなくなり、父親と一緒に母親を追って美山町を離れることになったことから始まりました。
同時に学校を転校することになったわけですが、それが二度起こったことで二度転校を余儀なくされました。両親は結果的に離婚することになったのですが、まったく見知らぬ土地で突然「転校生」となった尾﨑講師は転校した学校でいじめに遭います。
同級生たちは尾﨑少年に対して窃盗を強要し、嫌がると殴る。仕方なしに窃盗をするが捕まって警察に連れて行かれ、親が呼び出されます。引き取られて家に帰ると、尾﨑少年は話も聞いてもらえずに父親から激しくぶたれました。
同級生からも親からも攻撃され、尾﨑少年は完全に人間不信に陥りました。それまでは、美山町ではいじめなど無かったのに、なぜ自分がこんな目に遭うのだろうと考え悩み、5年生の頃には死に場所を探していたと尾﨑講師は言います。
それでも何とか中学校まで進学した尾﨑少年は、それまでいじめていた同級生たちと別のクラスになり、またいじめられそうになった時に別の友人が助けてくれました。そしてその友人が担任の先生にそのことを伝え、先生が尾﨑少年と彼らを引き離してくれたことで、ようやくいじめから解放されました。
それまで人間不信に陥っていた尾﨑少年の心に初めて人の「温かみ」を感じることができ、もう一度「人を信じよう」という思いが芽生えた瞬間でした。

わがままな性格

その後は徐々に友人も増え、自分なりの学校生活を過ごしていきました。そんな中、機械いじりが好きだった尾﨑講師は高校進学の時に機械科に進みます。そこで本領を発揮し始めた尾﨑講師は、自分が人よりも機械の操作が上手であることに気づきます。尾﨑講師が言うには、この頃から「わがまま」な性格が首をもたげ始めてきました。
高校卒業後は自動車会社に就職したかった尾﨑講師でしたが、父親から反対され紹介された鉄工所へ渋々入社します。嫌々就職した尾﨑講師は会社と”わざと”揉め事を起こして1年ほどで辞めてしまいました。そして友人に頼んで大手の自動車会社に再就職しました。
元々入りたかった自動車会社ですから、取るべき整備士の国家資格を取得し、同級生の友人との間の1年のブランクをわずか3年で取り戻しました。ここでも自分が周りよりも出来ると考えた尾﨑講師は、5年で工場主任になりますが、待遇面に不満を持ち始め「飽きて」しまって会社を辞めてしまいました。

その後、今度は再婚後の母方の叔父が経営している地元のお土産物の会社に営業職として入りました。しかしここでも、お客様とは上手くやれるのですが、社内では揉め事ばかり起こしてしまい、最後には叔父と喧嘩をして5年で会社を辞めることになりました。
この時ばかりは父親も母親の手前許すことができずに尾﨑講師に勘当を言い渡します。「わがまま」だった当時の尾﨑講師はそれを受けて家を出て行くことにしました。
しかし、当時すでに結婚して奥様も子供いましたが、奥様はここに残ると言うのです。尾﨑講師の家であるのに奥様が残ると言ったのには訳があり、それは尾﨑講師がこの家の長男であり継ぐべき人であるので、一緒に出て行くと家が大変だから残った、ということを尾﨑講師は後になって奥様から聞きました。

社員から社長に

家族とは遠く離れたところで働いていた時、自動車会社の頃の先輩に「ちゃんとしろ」と言われて紹介されたのが後に尾﨑講師が事業を引き継いだミヤシタクレーンという会社でした。
建設現場でクレーン車を操作する仕事が楽しく、また頑張れば周りが評価してくれることもあって、これまでどこも長続きしなかったのですが、気がつけば10年が過ぎていました。
その10年が過ぎた頃に社長から営業を勧められ、今度は営業で頑張ることにしました。実はその頃景気が悪くなり同業他社との競争が激しくなっていたからです。
これまでほぼゼネコンの仕事だけをやってきたわけですが、そこでの競争は只々「ダンピング合戦」つまり値引き競争。ひどい時には「ミヤシタクレーンの価格から2千円引きます」という会社に仕事を持って行かれることも。
当時の社長さんはそういう激しい競争に、体力的にも精神的にも持たないとして尾﨑講師が営業を始めて5年後には廃業を決意しました。
自分自身はそれでも良いが、この5年間でできたお客様はどうなるのか、と考えた尾﨑講師は事業を引き継ぐことを決意し、新たに「OZTEC株式会社」を創業しました。
とは言え、一社員だった尾﨑講師がいきなり経営者になるというのは資金面で難しく、3年間は先代社長に相談役として残ってもらい、資産をすべてレンタルという形でやっていくことになりました。実質的な借り入れが無い中での経営だったので、最初の3年間は順調に利益を出すことができました。
3年が経過したところで、先代が会社を去ることになったのですが、そこで初めて資産を引き取ることになりました。
クレーン車という重機はいくら中古と言っても大変な金額です。でも、そのタイミングでこれまでミヤシタクレーンがメインバンクにしていた銀行から好条件の融資の連絡が入りました。 好条件であったのですが、尾﨑講師にとっては面識の無かった銀行の方からいきなり出された話だったため、もしかすると借金があるのではないかと疑ってしまい、結果的に断ることにしました。そして自分で新たな銀行にお願いをして融資をしてもらうことになりました。

苦難の中での倫理との出会い

ここから新しいスタートを切った訳ですが、資金繰りもそこから始まり、決して計画的ではなかったスタートだっただけにすぐに資金がショートし始めました。
また、追い打ちをかけるようにゼネコンでの仕事はますますダンピング競争が激しくなり、ひとつの仕事の価格も下がってきました。このままではどうにもならないとなった時、尾﨑講師は大きな決断をしました。それは、これまで取り組んできたゼネコンの仕事を捨てて、全く別の仕事(得意先)に変えることでした。それが現在取り組んでいる一般の木造住宅です。

決断をしたとしても、いきなり事業が好転するわけではありません。当初はメインだった仕事をやめたことで売り上げは半減し、資金繰りに奔走することになりました。その上、焦るあまり社員さんにも無理を言うことが多くなります。そんな時に事故が起こりました。
社員さんがクレーンで動かしていた鉄骨の下敷きになったのです。一報を聞いた尾﨑講師は最悪のことを考え血の気が引いたと言います。幸いにも足の複雑骨折で済み命に別状はありませんでした。
でも、大事な社員さんが1名その後1年間入院することとなり、さらに苦しい状況に追い込まれてしまいました。

そんな時、また先輩が尾﨑講師のところに来て今度は倫理を勧めてきました。大先輩とは言え、最初は何のことかわからず断りました。ところが、しばらくするとまた勧めに来られた。よくはわかりませんでしたが、大先輩が二度も誘いに来るのは余程のことだと考えて入会を決めました。
入会はしたけれども、倫理についての説明が全く無いままだったため、セミナーに参加することもなく、そして苦しい経営だけが続いていました。しばらくすると、またその先輩が来て、「倫理経営講演会に来なさい」と言われました。尾﨑講師は「これを最後にやめよう」と考えて倫理経営講演会に参加しました。
ところが、そこで聴いた話は、自分よりも何倍も苦労をしながらも、現在素晴らしい会社を経営しているという話だったことから、尾﨑講師ははじめて倫理に興味を持ちました。
会社を良くするために学ぶことを決意した尾﨑講師は、そこからモーニングセミナーに参加し始めました。しばらくすると、幹事の役を頼まれました。会社を良くするために学びに来ているし、紹介してくれた先輩からは「頼まれごとは試されごと」と聞かされていたので、倫理法人会ではすべて「ハイ」で受けようと考え引き受けました。

人間の本当に大事なところ

翌年には副会長、さらにその翌年には単会の会長を引き受けるまでになった尾﨑講師は以前のような「わがまま」な性格が顔を出し、福井県の役員に対しても食ってかかるような態度でした。すると、今度はその県の会長の要請があり、すべて「ハイ」で受けることを決めていた尾﨑講師はいきなり県の会長に就任することになりました。
入会してから倫理について教えてもらっていなかった尾﨑講師は、この県の会長をするまでは倫理のことをよく理解していなかったと言います。しかし、県の会長となり福井県内の単会を周ると、どの単会でも役員が中心になって決められたことをキチンと行い、運営し続けていることに気づき、はじめて倫理が「人間の本当に大事なところ」を教えていることを知りました。

「人間の本当に大事なところ」というのは、自分が生きてきた意味やこれから生きていく価値のこと。このことを倫理から学んだ尾﨑講師は経営理念を記し、社員さんに伝えました。

『信頼で創る豊かな街づくり、人づくり』
・私たちは揚重業を通して「信頼」を創ります
・私たちはお客様の喜びを我が喜びとします
・私たちは常に自己の成長を目指します
・私たちは「人間愛」溢れる街づくりに貢献します

尾﨑講師は社員さんに自己開示し、過去のいじめの体験からいろんな人に助けられ支えられて今の自分があること、だからこそ我が社は「信頼」というものを一番大事にして仕事に取り組む、ということを理念にするということを伝えました。
また、「人づくり」を理念に入れたのは、尾﨑講師が今こうして経営者として皆んなの前で話ができるまでになったのも周りの人のお陰でもあり、倫理を学ばせてもらって実践をすることで変われることができた、だからこそ社員さんにも可能性を信じて同じように体験してほしいからだということでした。
そして、「人間愛」としたのは、自分よりも相手への思いやりや愛情を一番大事にしたい、そのような人になることを考えてのことでした。

信じてやり続ける

また、単会の会長の時に倫理指導を受けた尾﨑講師は、3つの実践項目を伝えられました。

・先代(職親)に心から詫びる 毎朝名前を声に出して感謝の言葉を伝える
・社内の終礼に重機や道具などに対して全員で感謝を伝える習慣にする
・目の前に起こる苦難も心から喜ぶ(苦しいから会社が伸びるチャンスと捉える)

一つ目については、毎朝仏壇にお参りし父親とご先祖様に向けて手を合わせているのですが、そこに先代だけでなくこれまで仕事上でお世話になった方を職親としてお詫びと誓いを立てているということでした。

二つ目については、大半の社員さんが朝すぐに現場に向かうため朝礼ができなかったのですが、代わりに業務終了後に終礼をすることにしました。「職場の教養」を使っての終礼です。
毎日皆んなで輪読をし、一人づつ感想を述べていくという流れですが、最初は上手くいきませんでした。輪読もそうですが、その感想が人によって大きな違いがあったからです。前向きに話す人もいれば、否定的な意見を言う人もいる。
尾﨑講師はそれぞれの意見があって良いという思いから、どんな感想でも拍手して受けていました。ただ、一番困ったのが感想が「無い」という社員さんでした。実はこの社員さんは尾﨑講師とは30年来の付き合いのある方です。
困ったというのは、肯定でも否定でも意見があればそれを受け入れることはできますが、「無い」と言われればどうしようもないからです。心の中では「何かあるだろう」と考えていましたが、「そういうこともあるな」と言って受け入れていました。
そして、これが終わったら全員で重機や事務所のパソコンなど道具に向かってお礼をして終礼を終わります。これを毎日行うようにしました。

半年も経つと初め否定的な意見を言っていた社員さんも徐々に前向きに捉えるようになっていきました。でも、30年来付き合いのある社員さんだけはこの半年間ずっと「無い」と言い続けていました。
ところがちょうど半年が経った頃の終礼で、その社員さんが初めて言葉を口にしました。

「こういうことをやる事でお客さんが本当に喜んでくれるなら、自分も精一杯やろうと思う」

半年間「無い」と言い続けていたその社員さんが振り絞って出してくれたこの言葉に尾﨑講師は前を向けないほど感動しました。諦めずにやり続けて、社長の思いが伝わった瞬間でした。
今ではその社員さんは自分の会社を誇りに思い、福井県で一番になるために精一杯頑張ってくれているという事でした。
そして、三つ目については実際苦しい中でもあったのですが、信じて何があっても喜んで受け入れるように努力していったということでした。

人に良い影響を与えられる価値ある生き方

福井県の会長の時に、15周年記念はどうするのかと、その1ヶ月前に言われたことがありました。
いきなりのことに慌てましたが、尾﨑講師はさすがに1ヶ月でそれを準備するのは難しいので、1年待ってもらう事にしました。
そこで、歴代の会長を表彰するために過去を振り返ってみたところ、驚いたことに過去は参加人数も少なく、場所も四畳半に電球一つというところで講師も呼べずに数人でビデオを見て学ぶというセミナーをされていたのです。
それを知った尾﨑講師は、そんな過酷な状況の中でも未来への希望を持って続けてきてくれたことに深い感銘と感謝の涙が溢れたと言います。
これまで記念の行事をしたことがない中での取り組みでしたが、尾﨑講師が責任者となって役員さんそれぞれの判断で実行していくことで、結果的に素晴らしい記念式典が開催でき、その晴れやかな場でバトンを繋いできてくれた歴代の会長に感謝の表彰ができました。
このタイミングで会長をやれたことに感謝するとともに、倫理を学び出してからたくさんの気づきと自分の至らなさ、周りの人の有難い存在を知ることができたと尾﨑講師は言います。

小学生の時のいじめに遭っていた時は自分が地球上で一番不幸だと考え、死を考えるほど絶望の淵にいたが、人との出会いで救われた。そして倫理に出会った今「本当の幸せとは何か」ということを考える機会までももらったと尾﨑講師は言います。
自分がこれまで生きてきた中の色々な問題や苦難というのは、後に誰かの救いになる、生きる勇気になるかもしれない。それが地球上で一人でもいたとしたら、たとえ苦難の人生であったとしても価値ある人生だと尾﨑講師は言います。この「誰かのために生かされている」ということを倫理で学ぶことができたことで、周りの人に「良い影響」を与えられる人になってきたということでした。

会社が行き詰まる原因は「景気の悪化」などの外部要因ではなく、ほとんどが内部の要因、特に経営者の心にその要因があります。具体的には経営者と社員さんが心を一つにして取り組むことができているか、引いては経営者がどれだけ社員さんの心に寄り添うことができるかにかかっていると尾﨑講師は言います。つまり、社員さんがついて来てくれるかどうかは、経営者の「器」受け入れる心を持っているかだということです。
目の前に起こることに対して一喜一憂する、機嫌が良かったり悪かったりするような経営者についていくのは大変です。経営者に不安や不信感を持つ社員さんがお客さんに安心や信頼を与えることはできません。大きな視野で、社員さんが「優しく見守られている」と感じられるような経営者にならなければならない。
これからも倫理の学びと実践、すなわち「明朗」「愛和」「喜働」を通して「純情(すなお)」な心を磨いて、社員さんと一緒により良い会社にしていくということでした。


[講師プロフィール]

福井県倫理法人会 相談役
尾﨑 喜代博

1957年(昭和32年) 福井県足羽郡美山町西市布 8月17日生まれ 61歳 小学校3年生の時に母が離婚。3学期に転校。4年生の1学期に転校。
4年生から3年間いじめに合い人生に失望。中学一年生で友人に助けられ生きる望みがつながる。
1976年(昭和51年) 福井県立福井工業高等学校 機械科 卒業
株式会社 イワシタ 入社
1978年(昭和53年) 福井日産自動車 サービス部 入社(自動車整備士2級取得)
1982年(昭和57年) マエダ製菓株式会社 営業部 入社
1986年(昭和61年) 新和工業 家具輸送 請負(長距離輸送)
1988年(昭和63年) 有限会社ミヤシタクレーン 入社           クレーンオペレ-タ-10年 営業5年
同業者とのダンピング競争で業績悪化
2002年(平成14年) OZTEC株式会社 創業(URL : http;//oztec.jp)
クレーン楊重業。オペレーター4名、事務員1名、役員3名。
当初は継続して頂ける顧客(地元ゼネコン)で事業を始める。
2004年(平成16年) ゼネコンを全て撤退。地元の工務店(木造建築)専門に特化。
2008年(平成20年) リーマン破綻 円高不況・株価低迷続く
2017年(平成29年) 年間木造建築上棟数438棟(全県3,875棟)シェア率11.303%

【倫理法人会 略歴】

2006年(平成18年)   福井市倫理法人会入会
2008年(平成20年)~  福井市倫理法人会 幹事
2010年(平成22年)   福井市倫理法人会 副会長
2012年(平成24年)       〃    会長
2014年(平成26年)   福井県倫理法人会 会長
2017年(平成29年)~      〃    相談役