飯塚正滋 幹事

事業承継に向けて

当会の幹事である飯塚正滋さんは、約1年前からお父様が経営されている会社に入られ、事業承継に向けて頑張っています。以前は杉並にある会社に勤めていたことから、倫理法人会とも縁があって入会されました。
現在の会社は水道管などの配管工事をされる会社で、重労働で今年のように暑い夏場は非常に過酷な環境の中での仕事になります。

入会して1年後ぐらいに当時勤めていた会社の仕事のことで行き詰まり、精神的に病んでしまった時期があり、モーニングセミナーにも中々出られなくなってしまいました。そんな苦しい時に一番に声をかけてくれたのが、杉並区西の現在の黒澤会長や仲間でした。また、当時の渋谷会長からも熱心にセミナーへの参加を促されたこともあって、徐々にまた参加できるようになりました。

現在のお父様が経営されている会社では、事業承継に向けて色々な仕事、職人さんと関われるように、複数の現場を任されています。過去につらい経験をしたからこそ、過酷な現場で働く職人さん一人ひとりに気をかけ、コミュニケーションをはかっています。

建設業というのは危険と隣り合わせの仕事なので、とにかく怪我をしないで一日を過ごすということがとても大切になってきます。
また、工事現場が複数あり、各現場に職人さんが入るため、全員が顔を合わせる機会が忘年会ぐらいしか無い。それに加えて、職人さんの多くは自分のやり方をそれぞれ持っているので、下手をすると同じ会社の仲間であっても意思疎通がまるでなく、バラバラになりがちです。
だからこそ、飯塚さんも現場に入り一緒に汗を流し、コミュニケーションをはかりながら、会社としての方向性などがぶれないように心がけています。特にお父様の経営は、その職人さんたちを大事にすることに重きを置かれていて、ほとんどが10年以上勤めている方で、辞める人がいないということでした。この人を大事にする経営を飯塚さんも継承していきたいと考えています。

「帰る場所」がある有り難さ

飯塚さんは過去少し杉並区西から足が遠のいた時期を経験しただけに、杉並区西という単会の存在のありがたさを感じると言います。苦しい時に声をかけてくれたこともそうですが、久しぶりにモーニングセミナーの会場に顔を出しても温かく迎えてくれる仲間やその「帰れる場所」のありがたみを感じるということです。
だからこそ、モーニングセミナーに中々出られない、少し離れてしまったとしても、モーニングセミナー以外にも繋がれる場があるので、自分が行ける場所に行って倫理との繋がりを持ち続けたほうが良いとも言います。

2011年3月11日の東日本大震災の時、当時営業だった飯塚さんは上野で地震に遭って足止めを余儀なくされました。夕方に浜松町でアポイントがありましたが、電車も車も動いていない中悩んだ挙げ句に歩いてお客様のもとに向かいました。
3時間ほどかかってたどり着いた時、お客様からとても感謝されました。飯塚さんは悩んだ時に脳裏に浮かんだのは「万人幸福の栞」の九条「破約失福」でした。
その頃モーニングセミナーには中々行けない状況でしたが、倫理との縁を切らずいたことで「いざ」という時に倫理が教えてくれた。
これからも、杉並区西との関係と倫理を大事にしていきたいということでした。

 

福田恵美 幹事

一つの市場を作るほどのヒット商品

石川県出身の福田さんは、大学進学のために上京し、1986年に阿佐ヶ谷にある株式会社グレープストーンに入社しました。
当時はまだ株式会社日本珈琲食器センターという名称で、80年に銀座四丁目にオープンした「ぶどうの木」という皿盛りデザート専門店が大ブレーク、福田さんが入社される前年に銀座松屋に「西洋和菓子 銀のぶどう」が出店されました。

福田さんはそんな勢いのある会社でお菓子の企画開発の仕事を始め、2年目には人気店になっていた「銀のぶどう」の統括責任者を任されました。企画開発から広告広報、百貨店の営業、さらに当時はまだまだアナログの環境だったので遅くまで働きながら、業務のシステム化にも携わっていました。苦労も失敗もたくさんしたが、若い人をドンドン登用していこうという社風のお蔭で早いうちから色々な経験と勉強をさせてもらったと福田さんは振り返ります。

1991年には2年の月日をかけて開発した「東京ばな奈」が発売されました。今でこそ東京土産の代表のような存在ですが、発売当初は全く売れませんでした。
最初に百貨店に持っていったところ、ポジションが異なるということから全く売れず、2年後に羽田空港に持っていったところブレークしたそうです。
当時の羽田空港はまだ規模が小さかったのですが、実は乗降客数は現在とほぼ変わらないという空港で、お土産売り場は3箇所しか無かったので1店舗出すだけで月の売上が5〜6000万円という「日本一坪効率の高い売り場」でした。

当時まだ東京土産といっても数が少ない中だったので、売り出した当初から大人気となりました。これがきっかけとなり、「東京土産」にたくさんの企業が参入して市場が一気に沸き立ちました。つまり「東京ばな奈」は、一つの商品をヒットさせただけでなく、新たな市場をも形成したというわけです。
福田さんが言うには、当時の会社は百貨店相手に「少量多品種」の商品作りに追われていましたが、それではあまり儲けがなく社員を食べさせていくことが難しいと考え、単品で売れるものを作りたかっただけで、「土産市場」を狙っていたわけではないそうです。

ヒットメーカー

このように、新卒で入社してから30歳まで超過密なハードワークをこなしてきた福田さんでしたが、心機一転30歳の時に転職することにしました。
次に入られたのが有機・低農薬の野菜と食材を扱う「らでぃっしゅぼーや株式会社」でした。そこでも安心安全なお菓子の開発の仕事に携わりました。
ちょうどそのころ阪神淡路大震災の起こり、神戸が大きな被害を受けたのですが、有名な洋菓子の「モロゾフ」から再起に向けて「安心・安全・オーガニック」に取り組みたいということで、主力のチーズケーキなどの素材をすべてらでぃっしゅぼーやのものに置き換えたいということになりました。ここでも福田さんが携わった仕事で、この国内産のチーズを使ったチーズケーキが大ヒットしました。

らでぃっしゅぼーやに2年勤めた後に、生まれ育った石川県は金沢に戻ることになりました。
その半年後に広島の「バッケンモーツアルト」という会社でも少し仕事をしました。ここは以前仕事をしていた「銀のぶどう」のOEM先だったのですが、「自然を材に」というコンセプトでの商品作りをしていて、福田さんはここで初めてオーガニックや安心安全な国産材料による商品作りというものを知りました。
らでぃっしゅぼーやに入るきっかけにもなったこともあって、この会社が福田さんの仕事の原点の一つでもあるということでした。

金沢に戻った福田さんは「ぶどうの木」という、2ヘクタールのぶどう園の中にレストランや洋菓子店を展開する会社に入社しました。ここでも福田さんのヒットメーカーぶりが遺憾なく発揮されます。
地方の会社の目標の一つが東京に出店することであり、「ぶどうの木」もその一つでした。それまでずっと東京の第一線で活躍してきた福田さんにその目標が託されたわけですが、東京の熾烈な競争を知っているだけに他と同じことをやっても駄目なことはわかっていました。金沢で展開しているフレンチレストランや洋菓子をそのまま持っていくのではなく、他がやっていないことを考えました。
そこで考えたのが「ジャムの店」。実際にフランスのプロヴァンスに行って現地の人と共にオリジナル商品を開発、フランスのもので作ったジャムの店ということで「コンフィチュール エ プロヴァンス」という店を銀座に出すことにしました。

出店当初は銀座ということもありようやく家賃分を稼ぐといった具合でしたが、プレスリリースを出したところあらゆるメディアから取材が入り、大半の女性誌から民放の情報番組、NHKの朝の情報番組にも取り上げられ、あっという間にブームになりました。
ただし、ブームは一時的なもので、しばらくするとまた客足が遠のいていきました。何とかしようと百貨店などにも出店しますが、以前の多品種少量生産の壁にぶつかってしまいました。
そんな悩みの日々の中で、店で扱っていた「生姜シロップ」がある有名経済新聞の小さなコラムに取り上げられ、一大ブームが沸き起こりました。
その後商品の卸営業を経て今度は片岡物産に転職した福田さんは、ここでもまた「エシレバター」という高級バターをリーマン・ショック後の「売れない時期」に専門店をオープンするとたちまち大行列ということを成し遂げます。

現在勤めているミックブレインセンターという会社は、東京ばな奈など福田さんが携わってきたお菓子のパッケージデザインなどを手がけていた会社です。お菓子やパンの新商品開発、ブランディング、マーケティングの仕事をする会社で、数々のヒット商品を手がけていて、業界ではヒットメーカーとしてとても有名な会社です。

倫理に出会って気づいたこと

福田さんは、仕事を通じて渡邊智恵子さんと出会い、その縁から倫理法人会に入会しました。
ビジネスが社会貢献になるという考え方をこの時に知って、以降その活動にも力を入れています。
福田さんは今年の母の日に倫理に入って良かったと思える体験をしました。「生んでくれてありがとう」という言葉は聞いてはいましたが、中々面と向かってお母さんに伝えることできていなかったのですが、母の日のプレゼントにメッセージが添えられるということでカードにその言葉を書いてもらってプレゼントしました。
お礼の電話をとった福田さんは、お母さんの声が心なしか嬉しそうだったことが心に残り、倫理に出会えたお陰だと感謝したそうです。

また、自分の現在の社会貢献活動のルーツは父親にあるということも気づいたそうです。
福田さんのお父さんは、福田さんが小学生だった頃に近所にできた公園のトイレが汚れていることを言うと、その日以来娘3人を連れて毎週そのトイレを掃除することになりました。
お父さんは、自前で掃除道具を買い、さらにはオイルショックで自宅ですら手に入りにくくなっていたトイレットペーパーをその公衆トイレ用に買ってくるというほどでした。
その結果、半年後にそのことが市の広報誌に「誰だかわからないが」ということで小さく書かれました。お父さんはそれを自慢気に福田さん達に見せていたそうです。
誰に評価されなくとも人に尽くすという父親の精神が、知らないうちに自分の中にも引き継がれていて、それが現在の社会貢献活動に繋がっていると福田さんは言います。
倫理で学んだ通り、父親から受けたことも母親から受けたこともすべてが無駄なく繋がって自分に引き継がれ、またそれが次の誰かに繋がっていくのだろうということでした。